遠藤周作『海と毒薬』

日本人は善悪の明確な判断基準を持たない。

 

第二次世界大戦中、九州医大医学部で行われたアメリカ人捕虜の人体実験を基にした遠藤周作の小説『海と毒薬』。今回はこの作品について書いていきます。

 

遠藤周作『海と毒薬』は1957年(昭和32年)に雑誌『文学界』に発表され、新潮社文学賞毎日出版文化賞を受賞しました。

 

この作品で書かれているのは、日本と日本人、です。

 

『人生の踏絵』(遠藤周作 2017 新潮社)のなかで遠藤は、「もちろん私が書きたいのはその事件のことではありません。私は事件のルポルタージュやショッキングな小説を書きたい男ではないのです。ただ私が書きたかったのは、そういう事件を通して「日本および日本人」を書いてみたかったのです」と話しています。

 

遠藤は『白い人』(1955 新潮社)や『沈黙』(1966 新潮社)等多くの作品でキリスト教と日本人の問題を扱ってきました。

小学4年生の時、10歳か11歳のあたりに洗礼を受けた、それがどんなに大切なことかを考えず、一緒に教会で話を受けていた子供たちにつられたと『私にとって神とは』の中で語っています。

 

そうした遠藤が『海と毒薬』の中で描いた日本および日本人とは何だったのでしょうか。

詳しい内容は読んでほしいのですが、さらっと内容と私の思うポイントを紹介します。

 

 

主人公は勝呂と言い、研究生としてF医大で働いています。

ある日、捕らえられた敵国兵士が運びこまれ、勝呂は生体解剖に参加することになります。 

「俺は何故、この解剖にたちあうことを言いふくめられたのだろうと勝呂は眼がさめた時、考える。言いふくめられたというのは間違いだ。たしかにあの午後、柴田助教授の部屋で断ろうと思えば俺は断れたのだ。」(p87)

勝呂には自分が参加を決めた理由が分からなかったんですね。

生体解剖という絶対悪に対して明確な判断基準を持たずに、何かに引きずられるように動いてしまう日本人を描いています。

 

 

悪いことだと分かっていても、人間関係や立場、状況によって正しい判断ができなくなる。もちろん日本人に限った話ではありませんが、遠藤周作は宗教(キリスト教)の視点から日本人を見つめた際、浮き出た差、あるいは違和感が、この善悪の判断とその基準の揺れに現れていると考えたのではないでしょうか。

 

是非、御一読ください。

 

 

 

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